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市立魔法専門学校

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 僕は別に奇跡否定論者という訳ではないのですが、適当に“それ”が起こると、馬鹿の一つ覚えのように「ご都合主義」と評することが多いです。…というのは、エロゲーにおける奇跡というのは、物語を収拾する為に使われる裏技的ギミックである場合が多いと思うのですが、どうにもそれが面白い使われ方をしていないと感じることが多いからです。


 奇跡をメインテーマに据えた、『ゆきうた』という作品があります。この作品はエロゲー批評空間におけるデータ数が800を近くになって尚、中央値が80でして、「世間的に概ね評価を得ている作品」と言っていいと思います。
 幾多の作品で安直に使用された結果、とかく批判されるようになってしまった奇跡をメインに据えながらも、この『ゆきうた』が評価を得られた理由。その一つに、この作品で起こる奇跡には代償が必要だった、ということが大いに関与していると思います(勿論、奇跡の部分を除いたシナリオ・テキストやグラフィックに対する評価もありますが、ここでは奇跡についてだけ取り上げたいと思います)。

 例えば、シナリオの進行によって相思相愛となったヒロインが、不慮の事故で瀕死の状態に陥ったとします。不治の病でもかまいません。とにかく、彼女が助かる可能性は無い。…この状況下で彼女が助かることが、即ち奇跡ということになります。

 この時、大抵批判に晒されるのが、「よくわからない(≒理由が提示されない)力や現象によって彼女は救われ、ハッピーエンドを迎える」というパターンでしょう。何故批判されるかと言えば、それは原因があっての結果でなければ納得出来ないプレイヤーが存在するからです。
 では、何故『ゆきうた』がその批判から逃れることが出来たのかと言えば、上でも述べたように、『ゆきうた』における奇跡には同等価値の代償が必要だったからでしょう。具体的にはヒロインの病を奇跡の力で治すと、それを願った主人公が同じ病魔に侵されたり、または被害が同程度の大怪我をしたり、もしくは記憶といった大切な何かを失ったりする訳です。


 さて、話は少し逸れますが、そもそも「奇跡」って何なのでしょうか。辞書で調べてみました。

1 常識で考えては起こりえない、不思議な出来事・現象。
2 キリスト教など、宗教で、神の超自然的な働きによって起こる不思議な現象。

ちなみに「超自然」とは、

・自然界の法則をこえた、理論的に説明のつかない神秘的なもの

以上のことから、当たり前の帰結ですが、奇跡は常識で計れない&理由が説明できないということで、どうやら僕たちは、奇跡に対する肯定否定を明確な論拠無しで下さなければならないようです。


 …ここで、奇跡の代名詞でもあるKeyについて(ここでは『CLANNAD』)、中々上手いこと抉った感想を紹介してみます。

kuranさんの「CLANNAD」の感想

 僕がこの感想を読んで、頭に浮かんだのがドラゴンボールです。

 いわずと知れた超有名漫画『ドラゴンボール』。7つ集めるとどんな願いでも叶うというドラゴンボールは、『CLANNAD』でいえば光の玉にあたります。
 その設定自体は夢があってとてもいいと思うのですが、このドラゴンボールの厄介な点は、その時その時によって、ドラゴンボールの効果(奇跡の効果・許容範囲など)が変わってしまったり、主人公たちのスキルが高まりすぎてすぐにボールが集まるようになり、簡単に願いをかなえられるようになってしまったという点にあると思うのです。

 世代からいっても、僕にとって『ドラゴンボール』はある種のバイブルで大好きな漫画なのですが、この点だけは子どもの頃から違和感を感じずにはいられませんでした。いくらなんでも都合よすぎるだろうと。
 でも、ナメック星編途中くらいまではそんなこと思っていなかったんですよね。それはたぶん…ドラゴンボールを集めるのがとても大変なことだったし、その効力が固定されていたからでしょう。


 これは僕なりの解釈なのですが、結局のところ、努力・苦労といった労力に見合った結果としての奇跡ならば許容されやすいのではないかと思うのです。何というかまあ…奇跡は奇跡だから奇跡なのに、妙なリアリズムが介入してくるものです。
 ようするにこれ、労働をしては正当な報酬を頂くという、現実社会を生きる人の感覚を少なからず当てはめちゃっているんですね。

 だから、労力に見合わない莫大な報酬が転がり込んだと感じれば「ご都合主義」なんて言葉が出てきてしまうし、等価交換(物々交換)が行われた『ゆきうた』にはそれを感じにくいという。


 辞書にもあったとおり、起こす方法があるのならそれは奇跡になりません。奇跡って「1+1=3」みたいなものですから。
 だから、「1+1=2」的な理論を良いシナリオとするならば、奇跡はあった時点でアウトなのでしょう。

 でも、僕は、必ずしも努力や苦労が報われない現実に生きているわけで。報われたいわけで。
 そういう、「理想や憧れに届いてもいいんじゃないか、それだけのことをしてきたじゃないか」という、“僕のご都合”に副った時、僕の中で奇跡が許容されるのではないかと思うのです。

 各々の価値観によって奇跡の価値は著しく変わるし、その対価も変わる。
 『ゆきうた』は、そういったプレイヤー側の裁量に委ねずに、ゲームの中でその価値と対価を確定させることで、それぞれのプレイヤーのご都合から逃れることができたのかもしれません。そして、その価値観がいかにも現実的だったことが、彼の作品の奇跡が評価された理由なのでしょう。

 奇跡には理由が無いから、きっと肯定も否定もできません。けれども、ゲームとプレイヤーの折り合いがつけば許容することはできる。
 奇跡の価値は、作り手と受け手の“ご都合”の距離感で決まるのかもしれませんね。
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